三成が目指したもの2010/02/08 01:44

三成を嫌う人が良くいう言葉に、三成は残虐冷酷な男だ、というのがある。

例えば有名な関ヶ原合戦直前の書状(「古今消息集」所収)で、人質の二三人は成敗してしまえ、と言っているとか、秀次事件で妻妾処刑の指揮をとっている、とかいうのがその理由になるらしい。

こういう批判には一々反論もあるけれど、ここでは書かない。
ただ近代的なデモクラシーの視点から、三成を自由・平等・博愛的な観点に反するからといって非難するのは的外れだ。

ただ戦いを無くすことを目指したという意味では、三成は間違いなく平和主義者であったし、その姿勢は一貫していた。

戦乱が恒常化していた社会から戦いを無くすためにはどうするのか、その為に三成ら豊臣政権が取った方法は非常にユニークであったし、ずっと後世になってやっとその意図が理解されたものもある。

この辺の研究には、藤木久志氏が一連の著作でふれている。
氏は惣無事令など豊臣政権の一連の施策を「豊臣平和令」と総称されたことで有名であるが、氏の著作には本当に目から鱗の記述が多い。

例えば氏には「刀狩令」という豊臣政権の有名な政策にふれたものもある。
刀狩令というと、農村を武装解除して一揆の温床を排除しようと意図したものと伝えられていて、私もかなりそう思っていた。
事実当時の豊臣政権のプロパガンダでもそう述べられているのであるが、政権の狙いは実は違うところにあった、と氏は分析されている。

氏の結論を要約してここに書いてしまうと、味も素っ気もなくなるので、それはやめておく。
ただ氏が指摘しているようにが、刀狩令の後でも農村には多くの武器が残されていたし、別に政権側はそれらを根こそぎ没収しようなどということは、そもそも最初から意図していなかった、という事実は重みがある。

結局のところ、三成ら豊臣政権が意図していたものは、無秩序状態の社会に秩序をもたらす、ということであった。

これをちょっと前の流行り言葉で言えば、「構造改革」ということになるかもしれないが、その改革は大きな痛みを伴うものであり、多くの人間は既得権益や名誉など、自分が依るべき基盤を失った。

ただ改革に反対する人々(これも今風に言えば抵抗勢力だろうが)に対しては、彼らは苛烈に徹底的に戦った。
それを行った三成らには大きな理想と堅い決意があったのだと信じている。

豊臣政権のこれらの施策を、多聞院日記の英俊は「兵を用いずして天下を平均する方法」と述べている。当時としては鋭い分析眼と思うが、それらは全て平和的手段で行われたわけではない。ただそれはより大きな平和を目指すものであった。

これらの荒療治を伴う施策が実現できたのは、政権側の強い意思だけではなく、内乱に疲れ、その終息を求める民意の後押しも強かったことだろう。
そういう意味では三成らは民意を反映した政治家と言う事もできるのかもしれない。

もちろん豊臣政権の全ての施策を三成がリードしたということは出来ない。また豊臣政権の施策には正負両方の側面がある。

ただいわゆる平和令の中心には三成が居たし、彼はその精神を様々な面で実現している。
これらにはまたいずれ触れたい。