【大河・真田丸】ドラマ中のエピソードのことなど2016/04/24 11:02

大河ドラマ「真田丸」は毎回見ています。
三谷幸喜脚本、三成役の山本耕史に期待があります。

今回の大河は、結構史実を踏まえたエピソードを入れてますね。
初期の上田城が家康の援助で作られた、というのはそんなに知られた史実でも無いように思いますが、ドラマに入れてますね。

上杉景勝上洛に際して、加賀まで三成が迎えに出向いたのも史実。
史実通りなら、両家の交渉を担っていた兼続と三成は、もう少し親しみを見せて良いはずですが、その辺の絡みはドラマには出てこないですね。

景勝上洛から秀吉謁見まで日が開いたのも史実をなぞっています。
ただ別に待たされた分けではなく、日々接待の予定が入ってましたね。


さてドラマでは、景勝のところに人質にいった、真田信繁が堺雅人が景勝と一緒に上洛してきます。
この辺もドラマの設定ではありますが、通説通りなら、信繁が景勝のところに行ったのは、上洛の一年前の天正十三年中頃の筈ですから、時期的には全くあり得ない設定ではなく、一緒に上洛して来たりしたら面白いですね。

小日向秀吉が、「上洛して来ない真田昌幸は怪しからん。懲らしめてやる。上杉は真田を助けるな。」と言っていましたが、これも三成から景勝宛て書状に実際にある話がベースです。(時系列は合ってはいませんが。)
有名な「真田の事、表裏比興の者に候の間、成敗を加えらるべき」という手紙ですね。
秀吉の本心なのか、はったりなのかは研究者間でも見解が分かれていますが、史実どおりなら、これを執り成すのは景勝なのですが、ドラマでは堺雅人の役柄になるのかな?

これまでのところ、山本耕史三成の活躍はイマイチな気がしますが、また三成の逸話が出てきたら、突っ込みを入れさせていただきます。



追伸ですが、
ちょっと頂けなかったのは、ドラマ本編ではありませんが、ドラマ後のおまけの「真田紀行」の中で、
「石田家は浅井の家臣で・・・」というナレーションがあったこと。
石田家が浅井の家臣であったという史料はありません。
浅井の前の京極氏の家臣には、石田姓のものがおり、たぶん三成の一族と関係はあるだろうと思えますが、浅井家中にはいません。
石田一族が、戦いの折に浅井氏に参陣を求められた可能性は否定できませんが、織田の進駐に伴い、早々に浅井を見限って秀吉についたのは確かなことで、いずれにせよ主従関係というものは浅井との間になかったと考えられます。

この辺、未だに曲解している人が多いので、一言書き添えます。

コメント

_ 又三郎 ― 2016/05/22 23:28

ご無沙汰しています。

石田三成の墓の件、残念でした。
もっと早くに書き込もうと思い、失念していました。
先日、ブログを拝見した際、そう言えば、石田家が浅井家に仕えていたと言う話をどこかで見かけたと思い、もう一度文献を漁って見たところ、江戸時代に編まれた「石卵余史」の中にその記事を見つけました。

「三成素姓 附 流落而憑野農事」と題した一項の中に三成が浅井長政に仕えて児姓とあって、一説に京極家に仕えたとも記され、更にその後、桑島治右衛門を介して、秀吉に仕えたとされています。

ただ出典が不明で、何を根拠に記されたのかは不明ですが、江戸時代に成立した何かの文献に記されていたものと思われます。

石田家としては、京極家に仕えていたとしても、その重臣の上坂氏に仕えた武士だったと推測されます。上坂家の系図の一つには、坂田郡の石田氏かは判然としませんが、石田家へ嫁した女性が確認できるものもあります。

以上、気になった事を二点書かせて頂きました。
余談ですが、某氏にまたやられました。
この人、本気で研究する気あるのかと、呆れる限りですね、こう続くと。

では、また何かありましたら、書き込みます。

_ SHUN ― 2016/05/28 21:30

又三郎さん、コメントありがとうございます。
石田氏が上坂氏に仕えていたというのは、ありそうな話ですね。正継は上坂氏を特別視していますし、上坂庄屋に対し出したユーモラスさで有名な書状
「昔物主にて之あるべき候、道に行き合い候はば、腰をもかがめ然るべく候」
というのも自らの主筋を意識したと言えるかも知れませんね。

_ 又三郎 ― 2016/05/29 15:33

コメントへの返信ありがとうございます。

上坂氏に仕えた武士と書きましたが、江戸時代の京極家の家譜に石田家は京極家の被官であったと記されていますので、坂田郡内の国人衆として同郡の国人衆の実力者だった上坂氏に従っていたと考えた方がいいのかも知れません。

本願寺証如の天文期の日記「天文日記」によると、京極高慶に従っていた主だった家臣として、上坂、下坂、浅見と混じって、大谷和泉守が見えます。
ただ近江の大谷氏はこの天文年間の京極家と浅井家の戦乱以後、没落したらしく、史料上に登場しません。

しかし、この大谷氏が後の吉継に繋がる系統であることは、家臣の中に京極家の奉行人である下河原や高橋と言った名が見えることからも間違いないと思います。

両者が、共に京極家へ仕えたと言う意識が、後の吉継と三成の関係を形作らせたと考えてもいいのかも知れません。

私はこうした面を考えても、青蓮院門跡坊官説よりは、自然な気がしますね。

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