「関ケ原の合戦はなかった」を読んで2018/10/21 17:48

「関ケ原の合戦はなかった」を読みました。中々興味深かったですね。

第一章は乃至氏が書かれた関ケ原前夜の政争部分、第二章が高橋氏の書かれたところで、本書のテーマ「関ケ原合戦はなかった」にあたる部分ですね。

まず第一章部分で面白かったのは、毛利輝元や前田利長について、再評価されているところですね。
特に利長の評価が高いです。

前田利長については、私も色んなところで
「前田(利長)は屈辱外交で家康との衝突を回避した」
という書き方をしているので、前田家史料に基づいて、
「そんな事はない」
と言われると耳が痛いところがあります。

ただこういう政争の評価というのは、
「能動的なのはどちらで受動的なのはどちらだったか?」
「両陣営の目標と達成基準は何で、よりそれに近づいたのはどちらか?」
で測られるべきと思っているので、そういう観点では加賀征伐での成功者がどちらかは自明と思っています。利長が通説より強かな人物であるというのは、その通りとは思いますが。


第二章の関ケ原合戦に関する高橋説は、最近注目されているものですね。
白峰氏らと合わせ、関ケ原の戦いに関する新しい考えを提唱されているものです。

あまり書くとネタバレになるので、やめておきますが、本文中に、三成が大垣城を出たのは、松尾山の秀秋を討つためであり、結果として正則らに挟撃されて脆くも崩れた・・・といった書き方をしている部分があります。

三成らが堅城・大垣城を出た理由は、通説では家康の流言に踊らされたことになっているのですが、そうではなく、松尾山の秀秋を攻めるためだった、というのは江戸期史料や軍記にもそういう記述があるものがあり、私もかつては「歴史群像」や「歴史と旅」などに、
「三成らが大垣を出たのは、松尾山の秀秋に対する備えのためだった。」
と書いていた時期がありました。

いま、その考えに疑問を持っているのは、その説でも不自然さがぬぐえないからですね。
当時、三成らが籠る大垣城は東軍にほぼ包囲された格好にあり、特に東山道北側は東軍勢力圏、先鋒は大垣城の西方に進出していたと考えられます。
関ケ原から近江に至る東山道の隘路・今須峠付近は東軍方(秀秋)にすでに抑えられていただろう、という著者の指摘もありますが、それには私も同意です。
その状態で、松尾山の秀秋を攻めにいくというのは、当然東軍に挟撃されるリスクを考えなければならない。それを百戦錬磨の西軍諸将が考えない筈がない。

かつて著者の高橋さんと話した時、私は
「私の知っている三成は、そういう策はとりません。」
と言ったことがあります。
三成らに他になんの選択肢も無かったかというと、そんなことはなく、例えば西軍勢力圏の伊勢路から甲賀に出て、大津の西軍と合流する手もあったはず、と思われます。

三成は以前、忍城を無理な水攻めをした戦下手と言われていたことがあり、当時その考えにも私は非常な不自然さを感じました。
その後、当時の一次史料から、通説と違う忍城攻めの様相を考察し拙著等で紹介した結果、お陰様で今では多くの人から同意を得ることができました。

もし史実としての関ケ原合戦が本書に記されるような状況であったとすると、そうせざるを得なかったよほどの事情か、私には見えないない何らかの勝算が三成にあったはずだ、と私は思います。

この辺を明らかにするには、史料比較だけではなく、違うアプローチが必要だろう、というのが今感じているところです
またそのうち、本書に対する考えをまとめて世に問いたい気がしています。