【大河・軍師官兵衛】小牧の頃の三成2014/08/15 23:04

大河ドラマは、天正12年の小牧の戦いまで進みましたね。

ドラマの中では、徳川強硬派の田中三成が、官兵衛と対立してました。
もちろん、これは今後のドラマの展開を睨んでの伏線というとこでしょう。

小牧の役当時の三成の行動は不明なところが多いですが、ドラマのように秀吉の戦略に影響を与えるような存在になっていたとは思えないですね。
ただ三成が秀吉に近侍して小牧に出陣していたことは、宇野主水日記等で裏付けられます。
またこの当時の三成は、上杉との取次ぎとして活躍しており、家康を背後から脅かす為の外交努力を行っていますから、家康と対立する動きをとっていたことは間違いありません。
(上杉景勝は家康と同盟していた佐々成政と戦うため、この頃は越中口に出兵しています。)

上杉家と三成の関係は、この前年・天正11年に遡ります。
賤ヶ岳の戦いの後、一旦冷却した上杉・秀吉関係を改善したのが三成・直江兼続のコンビですね。
天正11年6月に、上杉景勝は上条義真を人質として秀吉に送っていますが、臣従前の人質提出は異例であり、三成・兼続の外交により実現しました。

関ヶ原に至る前の時点でも、この両者の共闘は当時の政治情勢に様々な影響を与えましたね。

三成・兼続事前謀議はあったか?(その3)2009/12/28 12:23

長らくお待たせしました。
待ってくれていた方が何人いるか不明ですが、慶長4年の景勝・兼続帰国前に、三成との事前謀議はあったか、という考察の3回目です。

前回まで兼続・三成の事前謀議の存在の可能性について、帰国前後の状況から考えてみました。

おさらいになりますが、桐野氏や光成氏の指摘よれば、帰国前の上杉家の状況は非常に遵法的であって、徳川との関係にも気を遣っていたとのことです。
ちゃんと手順を踏んで、家康の了解をとり、徳川家にも充分な配慮を示した上での帰国であった、と。
帰国後もすぐに徳川に敵対する行動をとったわけではないですね。

このことからは、帰国前に三成と打ち合わせて、どうせ徳川とはいずれ決裂する、との前提に立った行動をしていたとは思えません。徳川とも良好な関係を維持したがっていたようにも見えます。

ただ、まあそうはいっても・・・・、

外交交渉というのが、こういう見かけの行動から真意が諮れないのは勿論です。
外交交渉は、仮に決裂する場合でも、その直前まで和解を目指すふりを装って続けられるものですね。
太平洋戦争前の日米交渉だって、先制攻撃用の機動艦隊がハワイを目指して航行している最中にも続けられていました。

というわけで、上杉家が仮に帰国前後は徳川に対し宥和的な姿勢をみせていたとしても、それを真意といってよいかについては、疑問を呈する方もきっとたくさんおられることでしょう。

ただここで注目すべき書状があります。

慶長4年5月18日の秀忠の書状で、これは既に徳川方から上杉に対する詰問が始まっていた頃ですが、この書状の中で秀忠は上杉が釈明のための上洛を決意したと述べています。
これが口先だけのものでない証拠に、景勝は家臣にも6月10日付けで「一度は上洛するつもりであった」という主旨の書状を書いています。

外向きには見せかけの態度をとったとしても、身内にまで同様の嘘をつく必要は無いはずで、景勝はこの際は上洛を本当に考えていたと見るべきかと思います。

もし最終的に決裂させるつもりであったのなら、景勝が再上洛するはずがないですね。。

景勝が上洛の条件としたのは、ただ訴人の取調べのみで、その条件すら徳川が認めないと分かったときに、徳川の非妥協的な姿勢の強硬さを悟って、開戦を決意した、と考えるのが自然と思いますね。

というわけで、兼続・三成の間に事前謀議は無かったか、仮にあったとしても、兼続側はそれに沿った対応を必ずしもしていないと思われます。

まあこの事前謀議については否定的な見方をする方が多いので、性格が天邪鬼の私としては、事前謀議があったという証拠をみつけたいと思うのですが、中々難しいですね。

次は事前謀議の証拠とされている史料に関する検証をしたいと思います。

・・・(続く)

三成・兼続事前謀議はあったか?(その2)2009/10/31 08:33

景勝が上方を離れ、会津に戻るまでの様子からは、事前謀議の存在を窺わせるものがあるのか?
その辺の状況証拠をまず考えてみたいと思います。

(なお以下の話題は、今年の滋賀での桐野さんの講演および光成氏の「関ヶ原前夜」の記述によっているところが多々ありますので予めお断りしておきます。)


まず上方を離れる際の状況です。

景勝・兼続主従は慶長四年八月、領内仕置きを名目に上方を離れ帰国の途に着きます。
もし三成との間に事前謀議があったとすれば、この前との公算が強く、大河ドラマなどの小説・軍記の類でもこの時期までに三成と兼続が密議をこらし、領国に戻った景勝・兼続主従が挙兵、討伐に向かう家康を三成らが挟撃する手はずを整えたことになっています。
「直江状」はまさにこの謀議に則った家康への挑発ということになるのですが・・・

だが帰国する際に景勝・兼続主従が取っていた行動にはそういう前提からは考えにくい点があります。
桐野氏の講演の中で記憶に残っていることに、この帰国の際、上杉は非常に遵法的であり、奉行に届けを済ませ家康にも気を遣っていた、という主旨を述べられていたことがあります。
三成が失脚し、上方情勢が急転する中での帰国なので、上杉方もあらぬ疑いをかけられないように注意していたということなのでしょう。
この後も上杉は徳川と頻繁に書状のやり取りをしています。帰国した八月から十一月の間に少なくとも四回のやり取りがあります。

このような徳川との関係を重視する上杉方の状況をみると、兼続が家康との戦いを決意して帰国したとは考えにくい気がしますね。

もちろん反論もあるでしょう。
帰国してすぐ挙兵できるわけでもないので、表面上は家康と友好関係を保っておいて時間稼ぎをしていた、という解釈もありえます。

ただこの件に関連しては、光成氏が興味深い指摘をしています。

(続く)