追悼-白川亨氏 ― 2012/05/03 00:15
石田三成研究で知られる白川亨氏が逝去されました。
先ほど通夜から戻りました。
ご霊前には多くのご著作が供えられていました。
私が白川さんに初めてお会いしたのは、もう10年以上も前になります。
石田三成の事績のみならず、歴史に関する姿勢に関して、白川氏から多くの事を教えていただきました。
僭越ながら、三成研究家としての白川氏の功績として大きなものを私が選ばせて頂くとするなら、まず第一に極楽寺系図等を発掘して石田一族の由来を明らかにしたこと、次に梵舜日記等の記述から北政所と三成の関係に新たな視点を与えたことかと思います。
最後にお会いした際、
「新しい史料を見つけたが、所有者の了解が無いので未だ本に書けない。」
と言ったことも言われてました。私の浅学さゆえ、その史料のもつ意味合いは充分理解できませんでしたが、白川さんはその掘り出しかけていた新たな史実とともに逝かれました。
心よりご冥福をお祈りします。
先ほど通夜から戻りました。
ご霊前には多くのご著作が供えられていました。
私が白川さんに初めてお会いしたのは、もう10年以上も前になります。
石田三成の事績のみならず、歴史に関する姿勢に関して、白川氏から多くの事を教えていただきました。
僭越ながら、三成研究家としての白川氏の功績として大きなものを私が選ばせて頂くとするなら、まず第一に極楽寺系図等を発掘して石田一族の由来を明らかにしたこと、次に梵舜日記等の記述から北政所と三成の関係に新たな視点を与えたことかと思います。
最後にお会いした際、
「新しい史料を見つけたが、所有者の了解が無いので未だ本に書けない。」
と言ったことも言われてました。私の浅学さゆえ、その史料のもつ意味合いは充分理解できませんでしたが、白川さんはその掘り出しかけていた新たな史実とともに逝かれました。
心よりご冥福をお祈りします。
忍城水攻め関連史跡(石上寺、高城神社) ― 2012/05/01 18:10
忍城水攻め、利根川側の取水口は江原観音院あたりと言われていますが、もう一方の荒川側の取水口は熊谷の石上寺あたりだったとされています。
荒川は当時と今では、流れが大きく変わっています。
石上寺はかつては、荒川の堤防の上にあったとのことですが、現在は完全に市街地の中です。
本堂は最近建て直されたようで、綺麗になっています。

荒川は当時と今では、流れが大きく変わっています。
石上寺はかつては、荒川の堤防の上にあったとのことですが、現在は完全に市街地の中です。
本堂は最近建て直されたようで、綺麗になっています。

石上寺があった堤は、後北条氏が築いたので「北条堤」と言われていいます(新編武蔵風土記稿)
天正2年、鉢形城主・北条氏邦が築堤したものだそうで、熊谷を水害から守る目的のものでしたが、三成の忍城攻めにも用いられたことになります。
忍城攻めゆかりの史跡で、熊谷にあるものとしては、他に高城神社を上げることができます・
高城神社は延喜式の古社で、三成が忍城攻めの際に焼き討ちして焼失したと言われています。
(ちなみに石上寺はこの高城神社の別当寺です。)
後世・忍藩主阿部氏が再興しており、藩主ゆかりの神社です。
かなり立派な社です。
天正2年、鉢形城主・北条氏邦が築堤したものだそうで、熊谷を水害から守る目的のものでしたが、三成の忍城攻めにも用いられたことになります。
忍城攻めゆかりの史跡で、熊谷にあるものとしては、他に高城神社を上げることができます・
高城神社は延喜式の古社で、三成が忍城攻めの際に焼き討ちして焼失したと言われています。
(ちなみに石上寺はこの高城神社の別当寺です。)
後世・忍藩主阿部氏が再興しており、藩主ゆかりの神社です。
かなり立派な社です。

ただ個人的には、三成が高城神社を焼き討ちしないといけない理由が良く分かりません。
関東動乱の中で被害を受けたものが、時が経つうちに、三成の忍城攻めに付託されているようにも思えます。
この辺の戦いでは、やはり忍城水攻めが有名でしょうから。
石上寺、高城神社から南に少し下ると、今の荒川の堤防にでます。
堤防に立ってみれば、荒川・利根川はどちらもさすがに大きな川と実感できます。
この二つの大河の水をもってしなければ実現できなかった、忍城水攻めとは何だったのか、改めて考えさせられます。
忍城水攻め関連史跡(江原観音院) ― 2012/05/01 16:06
三成の忍城水攻めに関する史跡ですが、忍城・石田堤・丸墓山(本陣跡)以外にも、口伝等で伝わる史跡が周囲にいくつかあります。
それらを少し紹介してみます。
まずこれは江原観音院(深谷市)の跡です。
最近、雑誌等にも紹介されたそうですが、水攻めの利根川取水口がこの辺にあったとされ、三成が水攻めの必勝祈願を行ったとされています。
当時は豆柄山観音院という大寺で、この地域では妻沼の歓喜院(国指定重要文化財、日本三大聖天の一つ)と並び称されていたということですが、今は小さなお堂があるだけです。
それらを少し紹介してみます。
まずこれは江原観音院(深谷市)の跡です。
最近、雑誌等にも紹介されたそうですが、水攻めの利根川取水口がこの辺にあったとされ、三成が水攻めの必勝祈願を行ったとされています。
当時は豆柄山観音院という大寺で、この地域では妻沼の歓喜院(国指定重要文化財、日本三大聖天の一つ)と並び称されていたということですが、今は小さなお堂があるだけです。

行田市史の古写真から、この堂がその跡と思われますが、入口の石地蔵や堂の吊鐘がないと、特定することも難しいでしょう。
境内の跡と思しき場所には崩れた墓石が散乱していて、ものの哀れを感じます。
お堂のすぐ裏は利根川の堤防になっています。

川が緩やかに蛇行する部分ですが、なぜ三成がこの地から取水したかは俄かには分かりません。(いろいろな考え方はできますが)
ここは忍城から20kmも隔たった上流になります。
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