今年の三成祭2019/10/06 21:40

今年も長浜市石田町 三成生誕地での「石田三成祭」の季節がやってきました。

公式サイトはこちらです。
https://ameblo.jp/mitsunarisaijikko

今年の三成祭では当会関係のイベントが行われます。

11/3 ○記念講演会(石田会館)13:30〜15:30
演 題:「書状から読み解く三成の人間力」

講師は不肖、私が務めさせていただきます。
三成の残した書状から、その人間性を語りたいと思います。
現代に通じる三成の思想を一緒に考えられたら幸いです。
────────────────────────────────────

三成祭前日11/2には、観音寺三成ブックカフェでマンスリー三成会のイベントがあります
公式サイトはこちらです。
http://mitsunari-maibara.com/

11/2 ○マンスリー三成会(観音寺 三成ブックカフェ)14:00〜16:00
テーマ:「三成研究の最前線」

最近の三成関連研究を紹介、特に三成最期の500日間の行動を追い、三成の思いを皆さんと語り合いたいと思います。

皆さんのご参加をお待ちしています

「関ケ原の合戦はなかった」を読んで2018/10/21 17:48

「関ケ原の合戦はなかった」を読みました。中々興味深かったですね。

第一章は乃至氏が書かれた関ケ原前夜の政争部分、第二章が高橋氏の書かれたところで、本書のテーマ「関ケ原合戦はなかった」にあたる部分ですね。

まず第一章部分で面白かったのは、毛利輝元や前田利長について、再評価されているところですね。
特に利長の評価が高いです。

前田利長については、私も色んなところで
「前田(利長)は屈辱外交で家康との衝突を回避した」
という書き方をしているので、前田家史料に基づいて、
「そんな事はない」
と言われると耳が痛いところがあります。

ただこういう政争の評価というのは、
「能動的なのはどちらで受動的なのはどちらだったか?」
「両陣営の目標と達成基準は何で、よりそれに近づいたのはどちらか?」
で測られるべきと思っているので、そういう観点では加賀征伐での成功者がどちらかは自明と思っています。利長が通説より強かな人物であるというのは、その通りとは思いますが。


第二章の関ケ原合戦に関する高橋説は、最近注目されているものですね。
白峰氏らと合わせ、関ケ原の戦いに関する新しい考えを提唱されているものです。

あまり書くとネタバレになるので、やめておきますが、本文中に、三成が大垣城を出たのは、松尾山の秀秋を討つためであり、結果として正則らに挟撃されて脆くも崩れた・・・といった書き方をしている部分があります。

三成らが堅城・大垣城を出た理由は、通説では家康の流言に踊らされたことになっているのですが、そうではなく、松尾山の秀秋を攻めるためだった、というのは江戸期史料や軍記にもそういう記述があるものがあり、私もかつては「歴史群像」や「歴史と旅」などに、
「三成らが大垣を出たのは、松尾山の秀秋に対する備えのためだった。」
と書いていた時期がありました。

いま、その考えに疑問を持っているのは、その説でも不自然さがぬぐえないからですね。
当時、三成らが籠る大垣城は東軍にほぼ包囲された格好にあり、特に東山道北側は東軍勢力圏、先鋒は大垣城の西方に進出していたと考えられます。
関ケ原から近江に至る東山道の隘路・今須峠付近は東軍方(秀秋)にすでに抑えられていただろう、という著者の指摘もありますが、それには私も同意です。
その状態で、松尾山の秀秋を攻めにいくというのは、当然東軍に挟撃されるリスクを考えなければならない。それを百戦錬磨の西軍諸将が考えない筈がない。

かつて著者の高橋さんと話した時、私は
「私の知っている三成は、そういう策はとりません。」
と言ったことがあります。
三成らに他になんの選択肢も無かったかというと、そんなことはなく、例えば西軍勢力圏の伊勢路から甲賀に出て、大津の西軍と合流する手もあったはず、と思われます。

三成は以前、忍城を無理な水攻めをした戦下手と言われていたことがあり、当時その考えにも私は非常な不自然さを感じました。
その後、当時の一次史料から、通説と違う忍城攻めの様相を考察し拙著等で紹介した結果、お陰様で今では多くの人から同意を得ることができました。

もし史実としての関ケ原合戦が本書に記されるような状況であったとすると、そうせざるを得なかったよほどの事情か、私には見えないない何らかの勝算が三成にあったはずだ、と私は思います。

この辺を明らかにするには、史料比較だけではなく、違うアプローチが必要だろう、というのが今感じているところです
またそのうち、本書に対する考えをまとめて世に問いたい気がしています。

三成-昌幸相婿説に関連して2016/11/06 20:40

このブログでも何回か書いたように思いますが、真田昌幸と三成は、ともに宇多頼忠の娘を妻にした相婿だという説があります。
そういうことを書いた史料は確かにあるのですが、信憑性には問題あり、真田側の研究者にはほぼ否定された説ですね。

正直、私もどうかなぁ、とは思っていますが(そうだったら面白いとは思いますが)

これに関し、水野伍貴氏が、三成祭での講演でこんな指摘をされていました。
「三成らが挙兵後に、大坂にいる諸将の家族を人質として収容した際、混乱を防ぐ為、親戚筋に引き取らすようにした。たとえば前田関係者は、縁戚の宇喜多が引き取るなど。
翻って真田を見ると大坂にいた家族は大谷が引き取っている。これは大谷が、信繁との縁で一番の親戚だったからで、もし昌幸、三成が相婿だったら石田家が引き取っていた筈である。」

中々説得力のある意見ですね。
大谷が真田の家族の面倒みてたのは三成書状に書かれていますから。

ただ本当に石田家がどのような人質の収容をしていたかは、よく見る必要あるでしょうが。(あまり血縁関係なしにやってたような気もします。)